ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

川之江城史の紹介

印刷ページ表示
<外部リンク>
記事ID:0003616 更新日:2020年9月7日更新

川之江城史

 南北朝動乱の頃(約680年前)南朝方、河野氏の砦として、土肥義昌が延元二年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。
 興国三年(1342)北朝方、細川頼春が讃岐より七千の兵を率いて攻めてきた。
 義昌は出城の畠山城主由良(ゆら)吉里(よしさと)と共に防戦したが破れ、城を落ちのびて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡(わたし)で戦死をしている。
 細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になった。元亀三年(1572)阿波の三好長治が攻めいったが、撃退している。
 土佐の長曽我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長曽我部に通じた。怒った河野氏は川上但馬守安勝に命じて、城を攻めとらせた。天正七年(1579)前後のことと思われる。河上但馬守は、轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正十年(1582)長曽我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。その時、姫ケ嶽より年姫が飛び込んで自殺したという悲話伝説も残っている。
 天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時、最終的に廃城になった。
 数々の攻防は、川之江が地理的に重要な位置にあった為の悲劇ともいえる。
 戦国の世も終わった寛永十三年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永十九年(1642)病没。領地は没収されて幕領となり、明治に至ったため、わずか六年の『うたかたの川之江藩』で終わった。
 その後年月を経て城跡は、本丸附近の石垣に僅かに名残りを留めるに過ぎなかったが、川之江市制施行30周年記念事業として、市民の浄財を基に城の再建が計画され、昭和59年度より城山公園整備事業として着手した。建築にあたっては、日本城郭の権威者である東京工業大学名誉教授藤岡通夫博士の指導を受けた。昭和61年6月30日、本丸跡に天守閣が完成した。涼櫓(すずみやぐら)・櫓門(やぐらもん)・隅櫓(すみやぐら)・控塀(ひかえべい)も順次完成し、園路広場の面整備の完了をもって昭和63年3月31日、城山公園整備事業はすべて完了した。